本帖最后由 陈知日 于 2016-3-20 15:08 编辑
远山行人
题记:值此清明到来之际,追思抗日战争中牺牲在故乡湖北的张自忠将军。时间:1940年5月16日。将军是盟军牺牲在战场第一线的最高级将领。
将军,今天我在日本熊本城 背对園部和一郎的墓碑 用凝望汉水的姿态 向你献花 这里,熊本是你当年对手的故乡 我站在他们城墙的最高处 用遥拜给你献花 手里拿着的,是《日军231联队史》
顺便告诉你。将军 園部和一郎死于1963年 当年用子弹射向你的第三中队长堂野军官 用刺刀捅你最后一刀的藤冈一等兵 都早死了
将军,今天我不看樱花 只看书,以及远方 是的,他们最后的住址 都在靖国神社 是否原谅他们,将军 只能由你说了算
2016年3月20日
注解:1940年3月,园部和一郎作为冈村宁次中将的后任成为第11军司令官,完成枣宜会战占据了宜昌。后来的锦江作战(上高会战)瞎指挥而大败,转任军事参议官,1941年6月,被编入预备役。大战末期的1945年3月,重新召集成为留守第6师司令部付,久留米师管区司令官工作,同年12月日本战败后解除召集。
当年園部 和一郎(そのべ わいちろう、1883年 - 1963年)发给部下的奖状原文 感状 歩兵二百三十一聯隊第十一中隊第一小隊 右は小隊長歩兵少尉松本治雄指揮の下に 宜昌作戦に従ひ 各地に転戦し 偉功を奏す 特に五月十六日 師団の大洪山脈内第三十三集団軍主力に 対する掃討戦に方(あた)りては 長山南方山腹を急進し 集団軍総部に 遭遇するや 機を失せず之を包囲攻撃して 総司令官張自忠以下其の首脳を 殲滅し 且多数の重要書類を鹵獲して 爾後の作戦指導に寄与したる所 甚大なり 又五月十九日 白河の敵前渡河に際し 小隊長は将校斥候として 徒渉場偵察の任務を受くるや 周到なる準備を整え 兵二名を率い夜暗を 利用して敢然水中に身を投じ 河中を詳密に偵察し 敵弾雨飛の下 毅然と して任務を遂行し 遂に好箇の徒渉場を発見報告せり 次で小隊は 渡河部隊の先陣として諸隊を誘導し 猛火を冒して勇躍断崖を 攀登して敵陣に突入し 奮戦力闘以て部隊主力の渡河及爾後の戦闘進展を 有利ならしめたり 之を要するに 小隊長の旺盛なる責任感 犠牲的精神及 適切なる指揮は 部下小隊の奮闘と相俟て 作戦竝に戦闘に貢献したる所 偉大にして 其の武功抜群なり 仍て茲に感状を授与す
昭和十五年十月二十日 第十一軍司令官 陸軍中将 園部 和一郎
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